【寝屋川市】長栄寺町にある大利共同墓地「山崎渡船遭難者之墓碑」淀川の交通史上最大の惨事の記憶
寝屋川市駅から現在拡幅工事中の府道18号対馬江大利線を西に進み、高柳方面に向かって右手、長栄寺町にある大利共同墓地にひときわ高く立派な碑があります。
「山崎渡船遭難者之墓」と刻まれ、裏面にはその事情が記されていますが、風化して全文を読むことはできません。建立年は「明治庚戊年八月十一日」と読めます。
ここは、現在の町名は長栄寺町ですが、明治時代は大利(九箇荘村)でした。
大利には江戸時代から「詠歌講」というのがありました。詠歌をあげたり、詠歌おどりをすることは、これといった娯楽のないの時代、数少ない楽しみのひとつで、年に1、2回の観音霊場参りは村人の信仰とレクリエーションの場になっていました。
寝屋川市の発展は京阪電車の開通によるところが大きく、近代化の波は京阪電車とともにやってきたと言っても過言ではありません。京阪電車は、明治43(1910)年に天満橋~五条間が開通し、4月1日に開業の予定でした。ところが守口変電所の故障などで開業が2週間延期され、実際には明治43年4月15日に開業しました。そんな京阪電車の黎明期に、大利の村人にとって悲しい出来事がありました。
大利の村人は、それまでは歩いて観音様を参詣していたのですが、明治43年4月、京阪電車が開通したので、初乗りを兼ねて橋本駅まで電車で行き、橋本から淀川の渡船を利用して山崎に渡って柳谷観音詣でをしようということになりました。開通2週間後の明治43年4月29日のことで一行は72名でした。
柳谷観音参りを終えての帰り道、山崎から橋本への渡船に第一陣として19人が他の客と乗っていました。ところがその船が転覆してしまいました。北風が強く、乗客が多かったのが原因とみられますが、蒸気船の横波を受けたともいわれます。当時の新聞には「前日の雨にて水嵩(かさ)増さり急流箭(や)の如く」とあります。乗船していた19人のうち、助かったのはわずかに3人という淀川の交通史上、最大ともいうべき惨事となったのです。
碑には「親子いだき死す者あり、一家全滅する者あり」と、惨状が記されています。碑は遭難者の百か日法要に合わせて、村長や講元、世話人の発起で建てられたということです。
今となっては当時のことを知る人もいなくなりましたが、それまでは歩いて参詣していた観音詣で、京阪電車の開通や蒸気船など、近代化の影に隠れてこのような悲しい出来事があったことを忘れてはならないと思いました。
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